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田能村竹田の話
 田能村竹田は、大分県竹田市出身の日本を代表する江戸時代後期の画家である。田能村竹田は1777年に竹田で藩医の家にうまれた。12歳のころから医師の道に進み、18歳ころから詩画に親しみ、20歳のころには河豚図を描いた。谷文ちょうや頼山陽らの文人・墨客とまじわり、あっさりとした色彩の花鳥・山水画が巧みで、写実性と高潔な風格を持つ南画(文人画)を確立した。代表作に南画の最高峰といわれる「亦復」「楽帖」がある。また経学・詩文にも長じていた。藩の仕事では唐橋君山のもとで「豊後国志」の編纂を行った。一時期恵良村衛藤賢需が田能村家の養子となっていた。衛藤家の墓地の衛藤賢需の墓には田能村賢需と記されている。
 旧竹田荘は日本の南画を代表する田能村竹田の旧居である。
 田能村竹田はのお墓は広瀬武夫中佐の墓と同じ茶屋の辻にある。
参考:
1.御客屋敷パンフレット(竹田市)
2.田能村竹田年譜(財団法人田能村竹田顕彰会)
   
田能村竹田の歴史[略歴)
   
 田能村竹田は1777年(安永6年)に竹田で藩医・田能村家の七代目としてうまれる。父・けん庵、母は萩野。兄・陽父と姉・ついがいる。幼名を磯吉という。雅号;竹田と称す。岡藩八代藩主・中川久貞の代である。
1784年(天明4) 父・けん庵手医師に進む。
1777年(安永6) 竹田で田能村家の七代目としてうまれる。
1787年(天明7) 磯吉(竹田)、藩校由学館に入学する。(11歳)
1788年(天明8) 磯吉,玄乗(竹田)と改名する。父・けん庵に変わり、医師に進む。(12歳)
1795年(寛政7) 玄乗(竹田)、嫡子となる。(17歳)
1798年(寛政10) 玄乗(竹田)、由学館出勤を命じられる。(22歳)
           唐橋君山に「豊後国志」編纂の命が下り、玄乗(竹田)が御用掛を命じられる。
1800年(寛政12) 玄乗を行蔵(竹田)と改名する。
           
橋君山没す。(65歳)
1801年(享和1) 「豊後国志」編纂の最終作業のため江戸へ行く。
1803年(享和3) 父・けん庵没す。行蔵(竹田)、家督を相続する。26歳
1804年(文化1)
 4月「填詞図譜」自序成る。
           7月「
豊後国志」を藩主が内覧。8月幕府に納本する
1805年(文化2) 京都遊学が許可される。
1806年(文化3) 1月「填詞図譜」小令の部2冊が刊行される。 3月村瀬こう亭に入門。
1808年(文化5) 1月臼杵藩士安東吉太夫妹・さだと結婚する。行蔵(竹田)32歳
           2月竹田荘に茶室をつくり、庭に池、損亭を築く。
           12月太一郎生まれる。
1811年(文化8) 岡藩に百姓一揆起こる。二度目の京遊に出発する。 大阪・持明院で頼山陽と会う。
1812年(文化9) 恵良村・衛藤賢需、田能村家の養子と、なり、田能村賢需となることを了承する。
1813年(文化10) 行蔵(竹田)の隠居が聴許される。
1814年(文化11) 京都遊学が許可される。
            太一郎が行蔵(竹田)養子「賢需」の順養子を聴許される。
1818年(文政1) 養子「賢需」隠居し、太一郎の家督相続が許可される。太一郎、太一と改名。
           頼山陽来竹し、竹田荘に宿す。7日滞在し、「卜夜快話」をつくる。
1819年(文政2) 洗竹荘茶会
1820年(文政3) 雲華訪れる。
1822年(文政5) 伊藤鏡河宅で詩会。
           衛藤賢需没す。(59歳)
1829年(文政12) 竹田荘茶説を作る。伊藤鏡河没す。(78歳)

1832年(天保3) 末広雲華来訪。印譜を作る。頼山陽没す。
1833年(天保4)) 竹田荘師友画録を作る。
1834年(天保5)) 大塩平八郎に会う。
1835年(天保6)  「山中人饒舌」刊行、田能村行蔵(竹田)没す。(59歳)
参考:
1.田能村竹田年譜(財団法人田能村竹田顕彰会)
   
唐橋君山と豊後国志
 
 
  唐橋君山は江戸の人で、1735年(享保20年)に医儒の家にうまれ、1784年(天明4年)に召し抱えられて、岡藩の持医(江戸在勤)になった。
1798年(寛政10年)、唐橋君山は岡藩主中川久持の命を受け、豊後国志の編纂を始めた。、唐橋君山63歳のときである。玄乗(竹田)は御用掛を命じられる。竹田22歳の時である。「豊後国志」編纂の仕事は翌年(1799年)から資料探査のため、豊後国各地の実地調査が始まり、1804年に「豊後国志」を完成し、藩主に内覧の上、幕府に納本する。江戸時代には日本各地でその土地の由来を記し、人情物産を記録する書物が作られた。幕府は諸侯が治める領地を知るため、これを認め奨めた。しかしその数は多くない。唐橋君山は1800年(寛政12年)に65歳で没した。

参考:
1.采薇堂二集(後藤均平著)
 
田能村竹田の絵画作品
 
 河豚図(1796/寛政8)、茂林雨後図(1800/寛政12)、ほか
 
田能村竹田と文人・墨客
 
多くの一流の人物と交流。唐橋君山、伊藤鏡河頼山陽などなど。
 
 

衛藤賢需との関係
 
 衛藤賢需は1764年(明和1年)に豊後の国・竹田・恵良村の藩医の家に恵良春衛藤家6代として生まれる。名は淑そう。医名:賢需。父・信秀。田能村竹田が生まれる13年前である。衛藤賢需は一時期、田能村家の養子となり、田能村賢需(8代)を名乗る。衛藤賢需は田能村竹田と深いつながりがあった。衛藤賢需の墓石には、田能村賢需という名と次の碑文が刻まれている。「梓弓いる月影のたのしけれ、飛畿そえてゆく法養かの峰」 衛藤賢需は1822年(文政5年)に59歳で没した。
 
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